「イメージの力―国立民族学博物館コレクションにさぐる」 展(六本木 国立新美術館)
平日昼間に行ってきました。結構がらがらだった。
「イメージの力―国立民族学博物館コレクションにさぐる」 展
- 視線のありか
- みえないもののイメージ
- イメージの力学
- イメージとたわむれる
- イメージの翻訳
- 見出されたイメージ
大阪にある国立民族学博物館。それはもう、とにかく広い。
私が行ったのは昨年の4月だったので、その後改装されたそうなのですが、その頃はもうとにかく果てしなくモノが立ち並んでいたという記憶。
で、博物館では地域別の展示が主体であったと記憶しているのですが、今回のコレクション展ではテーマ別にモノを抜き出しているということで、博物館で見るのとはまた違った印象があるだろうと期待して訪れました。
今回はちょっと予習をしてから行ったのですが、
一言で言うと、うーん……難しいな……。
「イメージのはたらきの普遍性」というものを探るために、モノを地域別・時代別にはせず、そのモノの役割や、造形の経緯や方向性によって分類する、というのは大変面白い試みだと思います。プロローグでの大量の仮面陳列なんかは(佐倉の歴史民俗博物館の仮面曼荼羅が有名ですが、まあやっぱり)圧巻。
けれども、実際見てみると、こう……難しい。手がかりが少ない、という感じ。
モノを見て、ただその形だけを見るのでは、「イメージの力」はびびびっとは働かない、と思うのです。これは私の鑑賞の仕方の問題かもしれません。でも、こういう生活をしていて、こういう文化や造形・色彩感覚を持っている人たちが、こういうモノを作ったのだ、ということが了解されないと、「では、それはなぜ?」とか、「この形やこの色は、どんな意味を持っていたのか?」というところまで、私の想像力は及ばない。
もちろん、たとえばインドネシアの「ハンプトン」像(木の腐りかけたようなうろがそのまま目になって、顔は彫刻されず、塊のような木に体の部分だけが彫られている)のように、見ただけで「うっ」となるものはあります。けれど、岩手県の「鹿頭(ししがしら)」に対して原田祐馬氏が言っておられた(前記事参照)ような、雪の中にこの像が立つとき……といった想像力は、環境や文化の背景なしには辿り着けるものではないでしょう。
そういう意味では、最後の映像コーナーは楽しめました。これまでの展示の中に登場したような神の像や被り物などが、実際に祭りの中で使われている映像が何種類も流されていて、この資料量はさすがみんぱく。これこそみんぱく。
ちょっと首をひねりながら出てきた私ですが、映像コーナーを観ていて少し気が変わりました。作りこまれたアートや、価値が確立しているような遺物遺宝のたぐいでなくても、プリミティブ・アートや民具はこれだけ素晴らしい、ということに対する最初の体験として、この展覧会は用意されているのでしょう。民俗学の展示なんか観たことない、という人にこそ観てもらうべき。
最後にひとつ。
ポスターでも一番大きく登場する、神像つきの椅子「カワ・トゥギトゥ」。
girls Artalk|国立新美術館にて、 「イメージの力−国立民族学博物館コレクションにさぐる」展
仮面とか棺とかは、背景知識がなくても楽しめる品が多い分野だと思います。それらには役割があるので、既にそれがひとつの手がかりになる。
たとえばこの椅子。椅子、と言うからには、座るところがあります。神像が後ろ手に持っているのが座面です。3像あるうち、手前の1つには、上のページの画像にわずかに座面が見えますね。
でも、後ろの2つには、座るところがないのです。
展示品を見ると分かるのですが、この2つの像は一応後ろ手に座面を持ってはいるのですが、その座面に神像自身が座ってしまっている。椅子じゃないじゃん!!
でもただの「像」ではないのです。あくまで、「像つきの椅子」なのです。訳が分からない。
この「実際使えないじゃん」というのが、道具系を見る楽しみのひとつ。
目の部分が開いていない仮面なんて、見る度にドキドキしてしまいます。
そんな感じで、「イメージの力」展、なんだかんだ言って私も楽しんで参りました。